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それぞれの選択 1999.6.22




家にしても、30年くらいたったものは古いと言うだけでダメみたいな言われ方をされたりするが、100年もたった建物になれば、その材を見て「昔の家はスゴイですねー」なんて軽く言われたりして。そう思える人にしても、本当のスゴさなんて皆目わかっちゃいない。何をとっているのか。何を犠牲にして、何を選択しているのか。そんな思いで見れば、かつては、耐久性の追及だった。と、感じずにはいられない。

できる限り良い素材を選び、様々な技術で、できる限り長くもたせる。そんなことをいえば、「良い材料はコストが高くて手がでないじゃないか。」とつっこみたくなる。材が良いばかりが理由ではない。無制限でできる人なんて稀である。おのずと選択するわけである。

曲がった材でもその性格を知り無理なく組む。この節は生きているか死んでいるか判断の上、支障なく使う。それぞれが助けあい、馴染むように組み上げる。それが匠の技術だ。

今は見た目である。節のない真直ぐなものがいい。元から素直な木はそんなにたくさん無い。ところが今は機械が良い。曲がったものでも苦も無く真直ぐに削ることができる。これが進歩したつもりの今の技術だ。木の都合を無視して組み合わせる。支障が出る道理である。知ってやっているのなら文句はない。

昔の家の縁の下は潜りこめた。通気を良くするためだ。軒は深かった。壁を守るためだ。極端な話、水周りは母屋と離れていた。母屋を守るためだ。耐久性を根本に据え後から使い勝手、見た目がついてくる。そこに美しさがあれば機能美、用の美だ。

コンクリート基礎になって縁の下は狭くなった。最近、換気煽をつけて空気を流通させる家があるのを知ったときには、笑う前にあきれた。昔の家に床下換気扇は必要無い。ついでに木がコンクリートの上に寝ている。息ができずに木の寿命は縮む。

使い勝手、見た目を重点に置き、耐久性は25年位で良しとしておこうというのが最近の感覚だ。どちらがまともかは賢い人ならすでに察していると思うが、そうでもない人もいるので、屁理屈になりかねないのを承知でさらに続ける。

先人たちは木を大切に扱った。山の木の成長に合わせて家を建て替え、自然環境に負荷をかけない。永続的な木の使い方を心得ていた。根本が確かだから、さりげなくエコロジーを行うことになる。

普通の家に使用する柱で育つのに50年かかる。建てる時に最低50〜100年もたせるつもりの無い人がエコロジーを、CO2問題を語る資格はない。

切った木の寿命は50年の木なら50年、1000年の木なら1000年とか言われるが知っているようで実は本当のところは誰も知らない。1000年の木が1000年なら100年の木だって1000年もたせられるんじゃないかと、職人の末裔である私は思ってしまう。もともと大まかな奴ではある。法隆寺を建てた飛鳥の人はできるだけ長くとは思っていたはずだが、実際に1000年もつと思っていたのだろうか。1000年以上もつ木造建築を実際に目にしたのは我々が初めてなのだから。

前の仕事の時、名古屋高速自動車道の建設に携わった。そのとき設計の人と一緒になる機会があり、橋桁を見ながら「何年もつんだろう。」と何となく口をついてでた。「接計上200年の耐久性があります。」「ふ〜ん、で、本音は?」「100年もてばいいでしょうねぇ〜。」「そうでしょうね。でも、なにもない今造るのが大変だから、造り換える時は、さらに大変でしょうね。」「それは大変でしょう。でもそのときはもう私は居ませんし、後の人がなんとかするでしょう。はっはっはっ。」

それは、そうなんだけどぅ。。。




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