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「これはどうやって、作ったらよいのだろうか?」と聞くと、よどみなくその手並みを説明する親父に、 「じゃぁ、何故、そうするのだろう?」と聞くと、返って来る返事は、必ず、 「これは、、こういうものだ。。」と言う言葉でした。この仕事の手並みは、親父にとっては 昔から変わらない“常識”でありましたし、傍からみれば、“こだわり”でもありました。 その頃、約半数を占めていた襖の仕立て方は、親父からみれば、“非常識”以外の何者でもなく、 「こんな手抜きをして。。」といつも、誰にとも無く、ぶつぶつ怒って仕事をしていました。 その気持ちを汲んで仕事を覚えてきたぼくも、その手の仕事に出会うとやはり、 「“非常識なやり方”をしてるなぁ。」とぼやいて、仕事をしておりました。
月日は流れて。現在。
「はて?」
ずっと“非常識”と思っていたやり方が、これだけ世の中の大半を占めてくると、 親父が嘆いていた手抜きのやり方の方が、すでに普通であり、今の常識になってしまっているようです。
いつから、こんなに。。。そして、なぜ?
今思えば、親父の仕事における“常識”は、良識のある常識であり、 表装の仕事における、昔の常識は、確かに良識でもありました。
これを崩したものは、安易な思い込みなのだろうと思います。
そして、こだわりとは、良識のある思い込みに違いありません。
私は、幸いそこを大切にする人に教わり、そこから始まりましたので、手並みを守って行くことに 心血を注げば、間違えることはありませんが、今の常識から初めている人達は、はたして元の仕方に 辿り着けるのだろうか?と、余計な心配をしています。
昔の合理的な考え方は、同じ耐久性や効果を得られる方法の中で考えられていました。 その良識の部分では、手間(時間)をかけることも気にかけません。 今の合理的な考え方はコストと時間の削減を第一目的?として、その耐久性や効果まで犠牲にし、 見た目だけを良しとしている様に思えます。
「これは、、こういうものだ。。」と親父に言わせた質問にいくつか答えられる様になった今、 「この説明を聞いたら親父はどう答えるのだろうか?」とその返事を聞きたい気持ちが募ります。